暴言と知性について (内田樹の研究室)

http://blog.tatsuru.com/2011/07/05_1924.ph

怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない。
だから、他人を怒鳴りつける人間は、目の前にいる人間の心身のパフォーマンスを向上させることを願っていない。
彼はむしろ相手の状況認識や対応能力を低下させることをめざしている。

人間が目の前の相手の社会的能力を低下させることによって獲得できるものは一つしかない。
それは「相対的な優位」である。

気になるのは、これが松本大臣の個人的な資質の問題にとどまらず、集団としてのパフォーマンスを向上させなければらない危機的局面で、「誰がボスか」を思い知らせるために、人々の社会的能力を減殺させることを優先させる人々が簇生しているという現実があることである。
「ボスが手下に命令する」上意下達の組織作りを優先すれば、私たちは必ず「競争相手の能力を低下させる」ことを優先させる。
自分の能力を高めるのには手間暇がかかるけれど、競争相手の能力を下げるのは、それよりはるかに簡単だからである。
ある意味で単純な算術なのだが、この「単純な算術」によって、私たちの国はこの20年間で、骨まで腐ってきたことを忘れてはいけない。

コミュニケーションを順調に推移させるためには、「相手が自分の言うことを理解できるまで、知的パフォーマンスを向上させるためにはどうすればいいのか?」という問いが最優先する。

学生に向かって「お前はバカだ」とか「お前はものを知らない」というようなことを告げるのは(たとえそれが事実であったとしても)、教育的には有害無益である。
「お前はバカだ」と言われて、頬を紅潮させ、眼をきらきらと輝かせて、「では、今日から心を入れ替えて勉強します」と言った学生に私は一度も会ったことがない。

だが、当人が言うように、知的力量にほんとうに天地ほどの差があるのなら、相手を説得するくらいのことはできてよいはずである。
クリアーなロジックで、平明な文体で、カラフルな比喩を駆使し、身にしみる実例を挙げて、「なるほど・・・そう言われれば、そうですね」というところまで導けるはずである。

論争的場面において、人々は詭弁を弄し、論点をすり替え、相手の思考を遮り、相手が「むずかしいことも理解できるように知性が好調になること」を全力で妨害している。
それは論争の目的が、相手の知性を不調にさせて、ふつうなら理解できることも理解できなくなるように仕向けることだからである。

私たちは使える知的資源のすべてを最大化しなければどうにもならないところまで追い詰められている。
その危機感があまりに足りない。
メディアの相変わらず他罰的な論調を見ていると、メディアにはほんとうの意味で危機感があるようには思えない。